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SNS上の議論で思い出したつらい記憶

·1033 文字·3 分
mota
著者
mota
AI開発、個人開発、ベトナムでの仕事と暮らしについて書いています。
SNS上の議論について考えたときの画像

小学校低学年の頃、帰りのホームルームで困り事を話す時間がありました。

名前を挙げられた児童は教室の前に立ち、謝るまで帰れません。 私にも悪かったことはあったはずですが、事情を確かめないまま、クラスの多数決で善悪が決まる進め方には納得できませんでした。

私は黙ったまま前に立っていました。 帰りが遅くなることもありました。

最近、SNSで誰かが大勢から責められている場面を見ると、あの教室を思い出します。

批判と集団での糾弾
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公開された記事やサービスに意見を述べること自体は、悪いことではありません。

何が問題だと感じたのかを説明し、別の見方を示すことは、公開の場に参加する一つの方法です。

ただ、特定の人を皆で責め、謝罪や撤回だけを求め始めると、話の目的が変わります。

行為の是非を考える場が、その人を仲間として扱うか、敵として扱うかを確認する場になるからです。

人数が多いことは、主張が正しいことの証明になりません。 反対に、批判された人が傷ついたことだけで、批判の内容がすべて間違いになるわけでもありません。

この二つを混ぜると、事実を確かめる声も、傷ついたという声も聞こえなくなります。

事実と感情を分ける
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SNSで何かを批判するとき、私は次の三つを分けて考えたいと思っています。

  • 確認できる事実:記事に何が書かれていたか、サービスの規約がどう定めているか
  • 解釈:その表現や行為をどう受け取ったか
  • 感情:不快だった、怖かった、傷ついたという自分の反応

感情は事実ではありません。 しかし、事実ではないから無視してよいわけでもありません。

「私は傷ついた」と「相手は人を傷つける目的で行動した」は、別の主張です。 後者まで言うなら、相手の意図を支える根拠が必要になります。

規約違反の疑いがあるなら、運営へ報告する方法もあります。 利用者同士で処分を決めようとすると、手続きも反論の機会もないまま、結論だけが広がってしまいます。

反論しない自由もある
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当時の私は、納得できない謝罪を拒むことで自分を守っていました。

今なら、すべての批判に反論し続ける必要もないと分かります。 意見を述べる自由があるなら、その議論から離れる自由もあります。

距離を取ることは、負けを認めることではありません。

SNSでは、あの教室よりはるかに多くの人が、一つの話題に集まります。 だからこそ、誰かを前に立たせる前に、何が確認できる事実で、どこからが自分の解釈や感情なのかを確かめたい。

あの頃の教室で、私がしてほしかったことでもあります。

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